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聞こえないことを隠して日劇に入団

幼少に難聴になるが、聞こえないことを隠して日劇に入団。看板として活躍し、テレビや映画などにも幅広く出演。引退後、日本ろう者劇団に入団し、そこで衣装や振付の担当と出演もしていうる。

渚 香織様にインタビュー 

不可能を可能にする!

―3,4歳の時お風呂場で転倒して、そのとき耳が聞こえなくなったみたいですね。でも実はね、補聴器は50代から付け始めたんですよ。小学校のとき通っていた耳鼻科の先生が、補聴器をつけない生活を勧めてくれて。補聴器をつけると、それに頼ってしまうから。思考力と感受性を養うためにも、自然のままにしておこうと言ってくれたんです。

その後、補聴器をつけないまま日劇に入団して不安はありませんでしたか?
―もともと日劇を受けたのも、本当にたまたまだったんですよ。私の父がサーカスや舞踊が好きで、私自身クラシックバレエや舞踊をずっと習っていました。高校を卒業して進路が決まっているとき、兄に「記念に受けてみたら」と薦められた日劇のオーディション応募をみて、「よし、じゃあ受けてみよう」と軽い気持ちで受けたら受かっちゃったんですよ(笑)
―その後日劇看板チームメンバーと一緒に看板として踊っていました。聞こえない事への不安というより、聞こえないことに関してはそれが当たり前なんですね。だからその中でどう工夫するかを考えていました。本当はこんなにお喋りだけれど、在団中は黙って聞き役になっていた。少し話がずれると、耳が聞こえにくいんじゃないかと思われてしまいますから。
グループを結成してから2年後、自分から降りますと降板したんです。そして「渚 香織」抜擢で看板スター誕生しました。「聞こえないダンサー」の自分探しに2年後、フリーダンサービジネスとして厳しい業界を体験して来ました。自分でいうのもなんだけど、踊りは上手かったと思うんですよ。私も踊っていて楽しかったけど、一生続けるのは違うな、と考えて結婚を機に引退しました。

 

「ゆずり葉」という映画に出演されましたが、印象に残っているものは?
―「私は難聴でありながら健聴者の世界にいたので、手話が苦手なんです、実は。オーディションの手話の台本を5,6分で覚えて手話で表現しなきゃいけなかったんですが、それがとても難しくて。でも自分の今までを残したいと思っていて、「とにかく映画に出たい」という気持ちでなんとかやりましたね。そうしたら私のために役を作っていただき、映画に出演できることになったんです。印象に残っているものは、物語の良し悪しというよりも役者としての心構えですね。今まで一番真剣に、深く取り組んだ役でした。

 

また、映画の役作りでも思ったことですが補聴器をつけなくてよかったと思っていますよ。表現力や感受性が養われたから、役作りやダンスに生かせた。だから私の両親や耳鼻科の先生には本当に感謝しているし、私は恵まれていると感じます。

これからは、踊りができる聴覚障がいの人が少ないからそういう専門学校を作りたいなと考えていますね。もともとろう者はできるのに音楽を習わないんですよ。だから手話で歌ったり踊ったりするミュージカルも可能だと思います。私がそうだったので。私が体験してきたこと、聞こえなくてもできたから他の人もできる、不可能も可能にする事だと思います。」

 これからの抱負は

聴覚に障がいがあることを感じさせない流暢な話で楽しませてくれた渚様。とても明るく、会話中もずっと笑みを絶やさない、素敵なお姿はとてもお綺麗でした。どうもありがとうございました!    

 

渚 香織 オフィシャルHP:
http://nagisakaori.fc2web.com/index.html